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居住地の自然と
文化遺産の豊かさを顕彰

現在、生長の家では、居住する地域の自然や文化遺産の豊かさを改めて見直し、固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝し、自然と人間との深い関わりについて顕彰しています。(※顕彰とは隠れた善行や功績などを広く知らせることです)

生長の家総本山が所在する西海市は、長崎県西彼杵半島の北部に位置し、西は五島灘、東は大村湾、北は佐世保湾と、三方を海に囲まれた自然豊かな地形を有しています。また、国指定天然記念物の七ツ釜鍾乳洞や重要文化財の西海橋など、歴史的な名所も点在し、地域の文化と自然が調和した魅力的な環境が広がっています 。​​

居住地の​顕彰一覧

これまで総本山職員で​顕彰した場所と地図になります。

喰場八幡神社

椎野大神

天久保馬頭観音

多以良内郷の権現岩

上岳神社と一瀬久太郎

下岳郷と大明寺川

西海橋

針尾送信所

ド・ロ神父と出津教会

邦久庵

中浦地区と雨乞い岩

平山郷の金比羅神社

横瀬浦と八ノ子島

早岐瀬戸と茶市

鳥加郷と千日祭

雪浦の自然

川棚町の豊かな森と水

大石大神宮

崎戸町の海の恵

松島

喰場八幡神社

八幡神社の石段

喰場川と飛び石

総本山から車で約5分、喰場川沿いにある喰場八幡神社は、江戸前期に喰場郷の総鎮守として建立されました。喰場郷は令和2年度の国勢調査で人口約340人。ほとんどが山間部で、喰場川の流域には広葉樹の森と多様な動植物が生息しています。豊かな自然が魚や鳥の餌場となったことから、「喰場(じきば)」という地名がついたと伝えられています。また、総本山建立以前、この地域は薪や野草の採取地であり、特に薪は干拓工事の重要な資材でもありました。薪を牛背に積んだ光景は「長堤の帰牧」と呼ばれ、往時の名物風景だったそうです。 総本山の境内には、平安時代の有力者・椎野大膳(しいのだいぜん)を祀る祠堂があります。由来記によれば、「大膳」は官職名で五位の位階に由来し、「四位の大膳」との語呂合わせから椎野大膳という名称が成立したと推察されています。本来「大膳」は宮中の食事を司る役職であり、また「喰場」の「喰」には「食べる」の意味が含まれることから、この地が古くから「食」と深く関わる場所だったことがうかがえます。さらに、龍宮住吉本宮がある「大神平(おおかみだいら)」の地名も、当初は「大膳平」と呼ばれていたと伝わっています。 西海市郷土史研究会の内海悌二会長によると、神社前の道は長崎方面へ向かう唯一の街道で、外海方面への分岐点でもあったため、多くの旅人で賑わっていたそうです。長崎市内を朝出発すれば正午にはこの社前に到着し、旅人たちは川で水を飲み、木陰で弁当を広げて休息しました。旅の安全を祈る参拝とともに、街道警備も行われる場所でした。 神社前の喰場川には飛び石があり、大雨や満潮時には渡ることができません。さらに、本殿へは石段86段を上る頑強な造りです。明治時代に国道206号線が整備されると、旧街道が廃れ、八幡神社は他社と合祀され廃社となりました。しかし、祭礼の日には今も多くの地元の方々が参拝し、信仰が受け継がれています。
椎野大神

椎野大膳のお墓

お茶の水

総本山の境内地に祀られている椎野大神。その御祭神・椎野大膳は、平安時代にこの地の荘園を治めた豪族とされており、実在と伝説の両面から語り継がれています。文久2年(1862年)に大村藩が編纂した『郷村記』には、正暦五年(994年)、大村氏の祖・藤原直澄が大村の地に入国した際、船を母衣崎に寄せ、椎野大膳をはじめとする地元の人々が上陸を出迎えたと記されています。母衣崎は、総本山から約5キロに位置し、現在は四本堂公園の一部となっています。磯辺の湧水は「お茶の水」と呼ばれ、直澄に供した茶に由来する標石が建てられています。また、直澄が腰を掛けたとされる「御腰掛石」は、平らな玄武岩が二つ重なり合い、今もその姿をとどめています。 椎野大膳は、十世紀初めには白崎郷膝行神に住んでいたとされ、近くには大膳の屋敷跡も残ります。現在は竹林に覆われていますが、大村湾を望む景観が広がる場所です。『西彼町郷土誌』によると、椎野大膳は人々から信頼されていた人物で、ある日狩猟のため、現在の総本山のある地に入った際、大蛇と遭遇。これを退けたものの、翌年、再び狩りに出た際にその地で命を落としたと伝えられています。遺体を動かそうとしたところ、「大膳はやらんぞ」との天の声があり、体の一部をその場に、残りを屋敷近くに葬ったとされます。以後、大膳の徳を偲び、村人たちは祠を建てて祀り、「大膳平」と呼ばれた地は「大神平」となり、現在に至ります。椎野大膳は、総本山内の顕斎殿の側にある丘の上に椎野大神として祀られています。 一方、屋敷跡に近い共同墓地には大膳の墓碑も残り、苔に覆われながらも丁寧に手入れされています。今も椎野家にゆかりのある方々によって、静かに守られています。
天久保馬頭観音

馬頭観音像

3つの祠

総本山のある西彼町に隣接する西海町天久保郷には、古くから馬頭観音が祀られています。 馬頭観音については、『馬と石像馬頭観音』(栗田直次郎氏・片山寛明氏 共著)によると、平安時代に真言宗が広まり、六道の思想が民衆の間に浸透する中、観世音菩薩に救いを求める信仰の一つとして誕生したとされています。特に、畜生道に落ちた者の苦しみを救うため、憤怒の相をもって現れたのが馬頭観音であったと伝えられています。やがてその信仰は、飼育される馬や牛の健康と安全を願うものとなり、近年では交通安全の守護としても祈られるようになりました。また、家畜が亡くなった際には、その冥福を祈る柔和な表情の馬頭観音像が彫られるようになったとも記されています。 訪れた馬頭観音は、入り江に面した小高い山の上に祀られており、参道には享保元年(1716年)の記念碑が建てられています。そこには、当時の領主・大村式部公頼が高山御料牧場を設けた際、断崖から落ちて命を落とした馬の霊を慰めるために馬頭観音を祀ったと記されていました。山を登ると三つの祠が並び、中央には元熊野神社観音、右には漁師に信仰された恵比須像、そして左の祠に馬頭観音が安置されています。祠内の馬頭観音像は高さ20センチほどの石像で、三面六臂の形をとり、穏やかな表情をたたえています。 地元では、毎年10月9日に「くんち」と呼ばれる例祭が行われ、祠の注連縄なども住民によって新しく整えられています。また、この地には「馬込」「土手口」「高山」といった地名が今も残されており、かつての牧場や馬に関する記憶が地域に根づいています。
多以良内郷の権現岩

権現岩と岩倉神社上宮

岩倉神社の鳥居

総本山から車で約30分。西彼杵半島の西側、大瀬戸町多以良内郷には、美しい自然の中にそびえる「権現岩」があります。この大岩は、石灰質の断層の東部に位置し、炭酸カルシウムが雨水によって浸食された結果、取り残された巨大な岩です。高さ33m、周囲30mの大きさがあり、近くに立つと、その迫力と存在感に圧倒されます。 『大村郷村記』(藤野保編、第五巻)には、寛文五年(1665年)にこの岩の根元に岩倉権現(岩倉神社上宮)が創建され、「高岩あり、其形奇なり」と記されています。その後、明治三十八年には、参拝の便を考慮し、麓の集落近くに岩倉神社下宮が建立され、神様はそちらに遷されました。また、多以良公民館の佐々木館長によると、かつて権現岩は地域の遠足や奉納相撲など、様々な行事の舞台となり、地元の人々に親しまれてきた場所でした。中には、幼い頃に岩に登って度胸試しをしたという話も残されています。地元の方々の手で桜が植えられるなど、自然と共に暮らす姿が今も見られます。現在は高齢化の影響もあり、権現岩まで足を運ぶ人は少なくなっていますが、年に数回、岩倉神社下宮では神事が続けられています。 「権現」とは、仏や菩薩が人々を救うため仮の姿で現れることを意味します。大自然の中で静かに佇むこの岩は、人々の暮らしを見守るように聳えています。
上岳神社と一瀬久太郎

上岳神社

一瀬久太郎の頌徳碑

総本山から車で約5分、上岳郷は大明寺川の中流域に位置し、隣接する下岳郷とともに、江戸時代後期の1836年に新田開発が行われ、稲作が盛んになった地域です。 上岳郷区長の山口定己さんによると、かつてこの一帯は遠浅の干潟で、小さな島々が点在していたといいます。その名残として、現在も高手嶋と呼ばれる小高い丘が残り、往時をしのばせています。新田開発は、干潟に堤防を築き水を排出する干拓工事によって行われました。以前は排水が悪く、作物の栽培に適さない土地でしたが、土砂が川の流れを妨げ、洪水の原因にもなっていました。完成後も、大明寺川が台風によって氾濫すると堤防が破損し、とくに旧暦八月には「八朔潮」と呼ばれる高潮によって大きな被害を受けることもありました。こうした災害を防ぎ、五穀豊穣を祈るため、明治三年(1870年)から上岳神社で「上岳八朔祭」が行われるようになりました。以来150年以上にわたり、毎年8月最終日曜日に開催され、総本山からも玉串奉奠や舞の奉納を通じて、地域の安寧と豊作を祈念しています。 旧暦八月の中秋の名月の頃には、月見を楽しみながら豊作を願う習わしもありました。上岳郷芸能保存会の資料によれば、次のような和歌も伝わっています。  「月月(つきづきに)に 月見る月は 多けれど   月見る月は この月の月」 この歌には「月」の文字が八回使われており、旧暦8月の満月を「名月」と称える心が込められています。 また、上岳神社の鳥居横には、地域発展に尽くした一瀬久太郎をたたえる頌徳碑があります。ひ孫の一瀬紀子さんによれば、新田完成当初は塩害や害虫、天災などに悩まされていましたが、久太郎は独自の害虫駆除法を伝え、米の増収に貢献しました。さらに、困窮する家庭に米を分け与えたり、医療費を立て替えるなど、多くの善行で村人に慕われたといいます。 八朔祭では、久太郎が始めたとされる「浮立」が奉納されます。これは、大名行列を模して練り歩く伝統芸能で、村を明るく元気づけるために生まれたと伝えられています。以来、上岳神社の総代は代々一瀬家が務め、その志が今も受け継がれています。
下岳郷と大明寺川

大明寺川

下岳龍神祭の浮立

総本山から徒歩約10分の場所にある下岳郷は、大明寺川の下流域に位置しています。この川は全長約7キロメートルで大村湾へと注ぎ、その支流の一つに、総本山の境内を流れる殿井手川があります。 大明寺川の上流ではアラカシやコナラなどの広葉樹が生い茂り、水辺にはカワセミやカルガモなど多様な鳥類が見られます。これらの鳥たちは、時折、総本山の金龍湖にも訪れます。 下岳郷は、江戸時代初期に金山開発で栄え、江戸後期には新田開発が行われた地域です。大明寺川の水を活用した米作りが盛んになり、現在では西彼杵半島でも有数の広大な水田地帯となっています。 西海市郷土史研究会の内海悌二会長によれば、1827年、大村藩の年貢増収政策の一環として新田開発が始まりました。河口が遠浅の干潟であったため、大規模な干拓工事が必要とされ、約9年の歳月をかけて約7ヘクタールの新田が完成しました。今も「大新田」「大潟」「前嶋」「潟口」といった地名に、その歴史が残っています。 この新田により米の生産量が増加し、戦後の食糧難時には、県によって買い上げられ、配給用として多くの米が供出されました。一方で、大明寺川は当時、川幅が狭く、大雨や高潮のたびに堤防が決壊し、水田が水没するなどの被害も多く、人々の生活は常に自然と隣り合わせでした。 そうした天災から水田を守り、五穀豊穣を願って、1857年には市杵島神社が創建されました。『西彼町郷土誌』によると、永富氏が願主となり、雨を司る竜神を祀る祭礼「下岳龍神祭」が始まったとされています。この祭りは、旧暦6月29日に斎行され、当初は下岳八幡宮から市杵島神社への遷宮を行う盛大な祭礼でした。 現在は、下岳神社(1637年創建)の祭礼として、毎年8月29日に執り行われており、「浮立」と呼ばれる伝統芸能が奉納されます。これは、大名行列を模した華やかな練り歩きで、市杵島神社までの約800メートルを盛大に巡行します。
西海橋

西海橋

大串盛多の像

西海橋は、昭和30年(1955年)に西彼杵半島と佐世保市を結ぶ橋として開通しました。現在では、佐世保方面からお越しの際にバスで通過する主要なルートとなっています。令和2年(2020年)、架橋から65年を迎えた西海橋は、戦後に建設された橋として初めて国の重要文化財(建造物)に指定されました。また、日本初の海峡横断橋としても知られています。この橋がかかる「伊の浦瀬戸」は、大村湾と佐世保湾(外海)を結ぶ水道で、干満の時間差により渦潮が発生し、日本三大急潮の一つとされています。古くから航行の難所とされ、江戸時代の絵師・司馬江漢もその様子を描いています。 西彼杵半島は長く「陸の孤島」と呼ばれていました。西海橋の完成は、地域にとって交通革命とも言える出来事であり、今も「夢のかけ橋」と親しまれています。架橋の構想は昭和初期に始まり、昭和11年(1936年)、地元出身の大串盛多議員が初めて県議会で訴えました。戦争や資材不足により計画は中断されますが、昭和25年(1950年)、吉田茂首相の決断により建設が実現しました。建設には当時の最新技術が用いられ、支間長216メートルという日本初の大規模工法や、急潮を避けるための吊り構造などが採用されました。技術者たちは厳しい自然条件の中、昼夜を問わず作業にあたり、西海橋の架橋を成し遂げました。また、建設当初「伊の浦橋」と呼ばれていた名称は、全国から寄せられた約三万三千通の応募の中から「西海橋」に決定。周辺は公園として整備され、現在は桜の名所としても親しまれています。大串盛多議員は橋の完成を見ることなく亡くなりましたが、公園内の胸像が今も橋を見守り続けています。多くの人々の願いと努力の結晶が形となった西海橋。その歴史に触れ、深い感動を覚えました。
針尾送信所

針尾送信所

送信所内部

西海橋の近くにそびえる針尾送信所(旧佐世保無線電信所)は、総本山から車で約25分の場所にあります。高さ約136メートルの無線塔が三本建ち並ぶこの施設は、太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が中継されたとも伝えられています。 佐世保市教育委員会によると、この三本の塔は長波通信用の電波塔として、大正11年(1922年)に旧海軍によって建設されました。当時の最新技術を用い、通信の要として、中国大陸や南太平洋方面との交信に利用されました。3塔は一辺300メートルの正三角形に配置され、その中心から送られるモールス信号は、空中線を通じて3方向へ発信されました。戦時中、佐世保市は空襲の被害を受けましたが、無線塔は破壊を免れ、戦後もその姿を保ち続けています。戦後、一時は解体も検討されましたが、市民の保存運動により存続が決まり、平成25年には国の重要文化財に指定されました。現在は地元の保存会が草刈りや案内活動を行い、見学者を迎えています。 この無線塔は今年で建設から100年を迎えます。鉄筋が錆びにくい川の玉石を使い、手作業で丁寧に積み上げられた構造は、今なお補強なしで美しい姿を保っています。最近の調査では、今後100年も現状のままで保てるとされています。保存会会長の田平清男さんによると、かつては子どもたちの遊び場でもあり、塔内の梯子を登った思い出が語られています。戦後、引き揚げ者が見た無線塔の姿は、多くの人々の記憶に刻まれており、今でも家族で訪れる方が後を絶ちません。歴史と平和を学ぶ場として親しまれています。
ド・ロ神父と出津教会

ド・ロ神父像

出津教会

総本山から車で約45分の長崎市外海町は人口約3,000人の小さな町ですが、「キリシタンの母郷」とも呼ばれています。明治時代にフランス人のド・ロ神父が建てた出津教会は、ローマ法王に次ぐ地位である枢機卿を二人も輩出した場所として知られています。この出津教会を中心とする出津集落は、ド・ロ神父が信仰と生活の再建に尽力した地域で、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして、2018年に世界文化遺産に登録されました。 16世紀にキリスト教が伝来した際、外海では約2,000人が洗礼を受け、禁教令の下で約250年間、信仰を守り続けました。断崖に囲まれた地形や不便な陸路が、潜伏を可能にしたとも考えられています。明治初期の教会記録によると、カトリックに復帰した信者が約2,900人、潜伏を続けた者が5,000人に上ったとされます。1879年、外海の主任司祭として赴任したド・ロ神父は、貴族出身で多くの実学を身につけて育ちました。来日後、極度の貧困に苦しむ外海の人々の姿を見て、自立の支援に力を注ぎました。1882年には、神父自らの設計による白漆喰の出津教会を完成させ、続けて、女性のための「救助院」を開設。素麺や醤油、パンなどの製造をはじめ、織物工場や薬局、保育所などを次々と設立しました。製品は長崎の外国人に好評で、女性たちの制服には西洋画に描かれた衣装が参考にされました。救助活動は1909年に政府から助成を受けるほど高く評価されています。神父は母国に戻ることなく、35年間にわたり地域の再建に尽くし、74歳で長崎の地にて亡くなりました。
邦久庵

邦久庵

デッキからの眺め

総本山から車で約20分、風早郷に佇む茅葺きのいおり庵「邦久庵」。建築家・池田武邦さんが、終の棲家として2001年に建てられ、池田さんの「邦」と、夫人・久子さんの「久」から名付けられました。池田さんは日本初の超高層ビル「霞が関ビル」を手がけた建築家で、後に「オランダ村」や「ハウステンボス」の設計を手がけ、環境保全を重視した循環型の町づくりに尽力しました。 現在、邦久庵は「邦久庵倶楽部」が維持管理し、一般公開のイベントを通じてその理念を伝えています。7月の公開日には七夕の笹竹が飾られ、平和と自然への願いが短冊に託されていました。 「邦久庵倶楽部」の資料によると、池田さんがこの地に惹かれたのは、長崎出身の女性との面接をきっかけに、戦後療養時に見た大村湾の風景を思い出したからでした。紹介された「琵琶ノ首鼻」からの景色に心を動かされ、土地を取得。地域の方々の協力のもと、まずはコンテナハウスを建てました。岬の岩場にある恵比寿様の祠を見て、「神様の土地を借りて住まわせていただいている」という畏敬の念を抱かれた池田さんは、やがて茅葺き屋根の邦久庵を建築されます。これは、伝統技法を受け継ぐ地元の棟梁にその技術を活かしてほしいという想いからでした。 邦久庵の茅葺き屋根は、断熱性・調湿性に優れ、囲炉裏で火を焚いても煙がこもらない優れた構造。池田さんは茅を「神様が創った素材」と讃えました。2階の屋根裏部屋からはその茅葺きを間近で体感でき、素材の香りや風合いに心が和みます。庵は釘を使わず、九州産の木材を用いた伝統工法で建てられており、随所に先人の知恵が活かされています。また、全ての部屋から大村湾が望めるよう設計され、特に海に迫り出したデッキからの眺望は圧巻です。春分・秋分の日には正面に夕陽が沈み、池田さんはこの場所で星空や潮の満ち引きを眺めながら、自然との対話を楽しまれていました。庵の裏手には、池田さんが提案し実現した石積みの自然護岸があります。海と山のつながりを守るため、コンクリート護岸に反対し、生態系の循環を尊重する設計が施されています。 邦久庵は、自然と共に生きる池田さんの哲学が形になった場所です。
中浦地区と雨乞い岩

中浦ジュリアン像

雨乞い岩

総本山から車で約30分、西海町中浦地区は、五島灘の美しい海と緑豊かな山々に囲まれた自然豊かな小さな集落で、約200世帯の人々が暮らしています。早生ミカンの産地として知られるほか、国指定天然記念物「七釜鍾乳洞」と、天正遣欧使節の一人・中浦ジュリアンの出生地としても有名です。中浦ジュリアンは、キリシタン大名・大村純忠の名代として14歳でローマへ渡り、日本とヨーロッパをつないだ初の公式使節団の一員として歴史に名を刻みました。帰国後は司祭となり、禁教下で布教を続けた末に殉教しました。その後、長らく功績は埋もれていましたが、昭和30年代に教科書で紹介されたことをきっかけに、地元でも顕彰の機運が高まり、2002年には生家跡に「中浦ジュリアン記念公園」が整備されました。 中浦はかつて大陸との交易航路にも位置していたことから、キリスト教が伝わった一方、土着の信仰も今に残ります。ジュリアンの生家近くの海岸には、かつての信仰の場である「雨乞い岩」があり、干ばつの際には岩に水をかけて降雨を祈る行事が行われていました。この祈願が後に「中浦浮立」という神事となり、現在は大名行列を模した躍動感ある祭りとして、4年に一度、宗像神社に奉納されています。その宗像神社の裏手には、仏法を守護し、雨乞いの神としても信仰された八大龍王を祀る小さなお宮があります。『西海町郷土誌』によると、江戸時代初期の慶長年間以前から祀られていたと記されており、この地に根付く自然信仰を物語っています。 中浦地区には「金龍橋」「龍の浦」など、龍にちなんだ地名が多く残っており、七釜鍾乳洞内にも「龍王洞」「龍宮境」といった名称が見られます。この地域一帯に、龍神を自然の力をつかさどる存在として敬う信仰があったことがうかがえます。なお、「雨乞い岩」はその形が蛙に似ていることから、地元では「どんくう岩」とも呼ばれています。「どんくう」とは長崎の方言で蛙を意味し、この名にちなみ、かつては田植えの際に踏んでしまった蛙やおたまじゃくしを供養する「どんくう供養」が行われていました。現在は行事そのものは行われていませんが、田植えの翌日は休日とし、命に思いを馳せる日とされているそうです。
平山郷の金比羅神社

金比羅神社

奉納相撲

総本山から車で約10分。西海市西彼町平山郷の標高218メートルの山頂には、金比羅神社が鎮座しています。麓の駐車場から急な石段を二百段以上登った先には、紺碧の大村湾とリアス式海岸の美しい景色が広がり、地元の方々も誇る景勝の地として親しまれています。頂上には展望台とモニュメントが整備されています。この地は古くから「八人ケ岳」と呼ばれています。『西彼町郷土誌』によれば、文治元年(1185年)、源平合戦の際に平氏を追討していた部隊が暴風雨に遭い、岩穴に避難したものの岩が崩れ、八人全員が亡くなったという伝承が残されています。 金比羅神社は、江戸時代末期、この地に赴任した役人が平山郷の人々のあたたかな人情と風土に感銘を受け、香川県の金刀比羅宮から神様を勧請したのが始まりと伝えられています。金刀比羅宮は海の守り神として信仰されており、平山郷の金比羅神社も、大村湾の海上交通の安全と、地域の心の拠り所として崇められてきました。毎年4月10日に最も近い日曜日に行われる例祭では、願い事が成就したことへの感謝を込めて相撲が奉納されます。「たとえ雨が降っても三十三番取らんといかん」との言い伝えの通り、願をかけた者は三十三番の相撲を奉納し、一本ごとに木の葉を串に刺し、その串を感謝の気持ちとともに祭壇に納めます。 かつては地方の力士たちが大村湾の対岸からも船で集まり、最高位の大関が土俵に立つこともありました。奉納のあとには、西海市の無形民俗文化財「平山礎築音頭」も披露されます。この音頭は、家を建てる際の「地固め」を再現したもので、紅白の布と鈴をつけた丸太を三本の支柱と十二本の綱で持ち上げ、地面に打ちつける動作を繰り返します。その際に歌われる「礎築音頭」は、元寇の防塁工事を鼓舞するために鎌倉時代に歌われたと伝えられ、重機のなかった時代に、人々が声を揃えて作業するための力強い作業歌として伝えられています。 このように金比羅神社では、信仰とともに地域の伝統が今も大切に受け継がれています。
横瀬浦と八ノ子島

横瀬浦港

八ノ子島

総本山から車で約30分の場所にある西海市西海町横瀬郷の横瀬浦は、戦国時代の1562年、ポルトガル船との国際貿易港として開かれた歴史ある港です。波が穏やかで水深があり、周囲の山々や入り江が外敵からの目を遮る地形であったことから、古くから良港として知られてきました。 当時のポルトガル船の来航目的は、交易に加えキリスト教の布教もありましたが、他の港では布教が許されなかった中、横瀬浦の領主・大村純忠は、日本で初めて免税や布教の自由などを認め、国際港として横瀬浦を開いたのです。それまで35軒ほどの農漁村だった横瀬浦は、交易の拠点となると、生糸やコンペイトウなどの珍しい品々を求めて各地の商人が集まり、京や堺に劣らぬ賑わいを見せるようになりました。また、キリスト教の祭礼も盛大に行われ、宣教師ルイス・フロイスが横瀬浦から日本に上陸したことも、布教の拠点であったことを物語っています。 現在、その教会跡地に整備された「横瀬浦公園」には、ローマに向かって手を差し伸べる等身大のフロイス像が立ち、教会風の展望台からは、昔ながらの町並みと穏やかな湾を望むことができます。潮風の中に、かつての国際港として栄えた横瀬浦の姿を感じることができます。 純忠は横瀬浦の教会で洗礼を受け、日本で初めてのキリシタン大名となりますが、神社仏閣を破壊したことにより内紛が起こり、横瀬浦は焼き討ちに遭い、貿易もわずか一年で途絶えてしまいます。その後、純忠は長崎港を開き、横瀬浦の町づくりは長崎に引き継がれました。 深く湾入した地形など、横瀬浦と長崎港の共通点は多く、地元の方々は「長崎港の原型は横瀬浦にある」と誇りをもって語られています。実際、現在の長崎市に残る「上町」「下町」「思案橋」「丸山」といった地名も、もともとは横瀬浦にあった町名が移されたものとされています。 海岸沿いを歩くと、沖合300メートルに位置する八ノ子島が見えてきます。お椀を逆さにしたような形が特徴で、頂上には白い十字架が立ち、地域のシンボルとして親しまれています。十字架は、ポルトガル船の船長が三夜連続で上空に浮かぶ幻影を見たことから建立を命じたと伝えられ、それ以来、航海の目印とされてきました。現在の十字架は、1962年にポルトガル船来航400年を記念して再建されたものです。 横瀬浦の歴史には、日本と世界をつないだ先人たちの勇気と交流の足跡が色濃く刻まれています。
早岐瀬戸と茶市

早岐瀬戸

早岐茶市

総本山から車で約40分の佐世保市早岐地区にある早岐瀬戸は、大村湾と佐世保湾を結ぶ海峡で、潮の干満により流れの向きが逆転する独特な地形を持ちます。「潮の目」と呼ばれる急流が特徴で、『肥前国風土記』には「速来の門(潮流の速い水門)」と記され、この「速来」が「早岐」の地名の由来とされています。早岐神社にも「速来宮」と書かれた扁額が掲げられています。 また、この地域の干潟には多くの有機物が含まれ、栄養が豊富なため、カブトガニなどの希少生物を含む多様な生き物が生息し、地元では潮干狩りも行われています。 かつて広々とした海峡だった早岐瀬戸は、江戸時代の平戸藩による干拓事業で狭まり、現在は最も狭い部分で幅約10メートルとなりました。それでも交通の要所として栄え、本州・九州を結ぶ海陸の交差点として市場が開かれました。平戸往還という街道が通り、宿場町としても発展し、早岐神社には松尾芭蕉の句碑も残されています。 この地では、周辺地域が茶の産地だったことから「早岐茶市」が開かれるようになりました。江戸時代には縁日に合わせて市が開催され、明治時代には最大で600隻の船が集まり、「九州の茶相場は早岐で決まる」と言われるほどの賑わいを見せました。現在も早岐茶市は毎年5月上旬に開催され、新茶をはじめ海産物、農産物、陶器、民芸品などが取引され、約100軒の露店が立ち並びます。今なお多くの人々に親しまれ、地域のにぎわいを伝える伝統行事として受け継がれています。
鳥加郷と千日祭

鳥加郷

千日祭の提灯

総本山から車で約5分の西彼町鳥加郷は、総本山のある喰場郷に隣り合う山あいの集落です。谷間には水田が広がり、約500人(令和2年国勢調査)の住民が暮らしています。郷の中心を流れる鳥加川流域には、鎌倉時代の石鍋製作遺跡や、江戸時代の金鉱山跡が点在。区長の田添正隆さんによると、かつては豊かな森林資源を活かし、薪や木炭の生産も盛んでした。それらは川を下り大村湾から九州各地へと運ばれ、郷は海上輸送の要衝として栄えました。 田添家には、代々大型船の船主を務めた歴史が残ります。今もご自宅には、当時の羅針盤や船用金庫などが大切に保管されています。こうした商業活動の背景には、郷民に受け継がれる観音信仰がありました。菩提寺・大徳寺の住職、功承さんによれば、鳥加郷では古くから観音様を祀り、「忘己利他」(己を忘れて他を利する)の教えを大切にしてきたといいます。 江戸時代初期、佐賀藩が編纂した『肥前古跡縁起』には、奈良時代の高僧・行基が光を放つ橋を七つに切り海に流し、その材木で観音像を彫ったという伝承が記されています。このうち鳥加郷の入り江に流れ着いた材で祀られた観音は、現在の大徳寺が位置する「観音谷」の起こりとも伝えられています。毎年8月、大徳寺観音堂では「千日祭」を開催。鳥加川両岸に約千個の提灯がともり、参拝すると四万六千日の功徳が得られるとされます。この功徳は、一升(いっしょう)と一生(いっしょう)を掛けた故事にもとづくものです。功承さんは法話で、得た功徳の一部を他者に分け与えることで、観世音菩薩の慈悲を実践する大切さを語ります。古来からの観音信仰は、千日祭を通じて今も郷民の心を結び、互いの喜びや悲しみを分かち合う絆を育んでいます。
雪浦の自然

雪浦川

雪浦ウィーク

総本山から車でおよそ30分の場所にある大瀬戸町雪浦地区は、海、山、川の自然が調和した風景が広がる地域です。森林が地域の約8割を占め、かつてはその資源を活かした炭焼きが盛んに行われていました。山間部には数多くの渓谷があり、下流には落差約20メートルの「つがね落としの滝」が見られ、自然の力強さと美しさを体感できます。山から流れる清らかな水は、雪浦川となって町の中心をゆるやかに流れ、田畑を潤しながら、景観の一部を形づくっています。河口付近の「雪浦海浜公園」では、朝の散策やマリンスポーツを楽しむ人々の姿が見られ、晴れた日には東シナ海を望む雄大な眺望も広がります。 近年では、自然環境の豊かさと市街地までの交通の便の良さが評価され、子育て世代や趣味を楽しむ高齢者、故郷に戻る人々の移住が増え、地域の人口は徐々に増加しています。また、雪浦は古くから自然を神聖視する信仰が息づく場所でもあります。地元の熊野神社では、毎年10月に例大祭「雪浦くんち」が行われ、浦安の舞や蛇踊り、獅子舞、そして地域の若者による勇壮な「豊年太鼓」が奉納されます。この太鼓は、長年にわたり地域に受け継がれてきた伝統芸能で、自然を敬う心とともに育まれてきました。 さらに、毎年5月の連休には「雪浦ウィーク」が開催され、地域の家庭や工房などが会場となって訪れる人々を迎えます。地元の食材を活かした料理や手づくりの品々、ワークショップ、音楽演奏などが行われ、地域と来訪者との温かな交流が生まれています。こうした雪浦は、自然の恵みと人々の暮らしが調和した地域です。
川棚町の豊かな森と水

虚空蔵山

悠久の森

総本山から車で約50分の川棚町は、令和7年2月現在で約1万2000人が暮らす町です。総本山の対岸に位置し、波静かな大村湾に面して山々に囲まれた風光明媚な土地柄。山間を流れる川棚川沿いの集落は、豊かで肥沃な土壌と川や海の恵みを受けて昔から人々の暮らしを支えてきました。旧長崎街道が町内を貫き、石畳や宿場町の面影が残る風情あふれる町並み。伝統工芸も息づき、地元かまもと窯元では手作りの器や装飾品が並び、訪れる人を魅了します。 町のシンボルは標高608メートルの虚空蔵山。登山口から約40分で山頂に立つと、眼下に川棚町と大村湾の絶景が広がります。平成2年には山周辺の町有林を「悠久の森」として永久保存し、その清らかな湧き水は石木川となって田畑を潤し続けています。石木川沿いには400年以上前から石積みで築かれた棚田が約千枚広がり、四季折々の美しい風景をつくり出します。下流域は「ホタルの里」として知られ、初夏の夜には無数のホタルが幻想的な光を放ちます。 江戸時代に創建された川棚八幡神社には摂社・水神宮が併設され、地下から汲み上げる清水が「ご神水」として親しまれています。こうした川棚町の豊かな森と水の恵みが人々の暮らしを支え潤いを与えています。
大石大神宮

大石と3つの祠

社の裏に突き出している大石

総本山から車で30分の場所にある長崎市琴海村松町の「大石大神宮」は、小高い丘にあり、琴海地区の海を見渡せる場所です。森宮司によれば、この神社を含む琴海地区の神社群は、1612年の大村藩によるキリシタン禁止令後、西彼杵半島に集中して創建された江戸時代初期のものと考えられます。 拝殿に入ると、高さ約2 m・幅約4 mにもなる大きな石が中心に祀られ、祭壇の裏側からは石が飛び出しています。これは、西彼杵変成岩であるこの石がもともとその場所に存在し、その後社殿が築かれたそうです。石の上には三つの祠が並んでおり、中央には主祭神・天照大神、右には金毘羅様が祀られ、左の祠は詳細が分かっていません。 旧・大石村(現・松村町)だったこの地域では、なぜこの石が祀られたかは分からないものの、地元では古来から石を信仰の拠り所として大切にしてきたと伝えられています。また、大石大神宮では毎年5月5日に「五月祓い」という行事が行われます。旧暦5月(現・5月下旬~7月上旬)は、新緑が芽吹き、田植えの時期と重なり、一年のなかで特に緊張感のある季節でした。そのため、心身の不調や疫病、疫神の侵入を防ぐ儀式として行われ、重要な行事とされてきました。さらに、琴海地区内の9社では年間約40の神事が行われ、それぞれ地域特有の加護があるとされています。北部3社は五穀豊穣、半島部2社は大漁と航海安全、そして南部4社(大石大神宮を含む)は長崎市方面からの疫病や外敵を防ぐ役割を担っています。 森宮司はこの伝統を約35年間守り、かつては9社を兼務していました。過疎化による氏子減少の不安があった中でも、総代さんたちの協力で神事を一つも途絶えさせず、現在も地域の信仰を支え続けています。
崎戸町の海の恵

アラカブのバス停

ダイヤソルト工場

総本山から車で約35分の西海市崎戸町は、崎戸島、蛎浦島、江島、平島の四島からなり、人口約1,200人(令和4年3月末現在)の町です。地元の海ではアラカブや鯛、アオリイカなどの高級魚が獲れ、港には釣り人向けの民宿が並び、アラカブをモチーフにしたバス停も見られます。海と人々の暮らしが深く結びついた地域です。とくに、崎戸町は塩の生産量が全国一を誇る地域として知られています。 江戸時代以降、捕鯨と炭鉱で栄え、1907年(明治40年)には海底炭鉱が開かれ、戦中・戦後には人口が2万5千人を超えるほどに。当時、日本一の人口密度とも言われ、物資も豊富で、生活環境が充実していたと伝えられています。しかし、1968年(昭和43年)の炭鉱閉山により町の姿は大きく変わりました。かつての住宅地や市場、映画館などの跡地には、現在、芝生の広場や公園が整備されています。炭鉱が盛んだった頃、2万5千人分の生活用水を確保するのは困難でした。その解決策として注目されたのが製塩でした。塩の製造工程で得られる蒸留水を水道用水として活用できるほか、海水の高い塩分濃度と、低品位の石炭を燃料に使えるという地理的・資源的利点がありました。 こうして1955年(昭和30年)、崎戸製塩株式会社(現ダイヤソルト)が設立され、製塩業が町の基幹産業として発展。水問題を解消しながら、島の経済を支えてきました。現在、ダイヤソルトでは、主に食品加工会社向けの食用塩を製造しており、国内食用塩の約2割、九州では約7割を占めています。イオン交換膜電気透析法を用いることで、塩田を必要とせず、天候にも左右されずに、安定的に高品質な塩を生産しています。2001年には環境ISO14001を取得し、環境への配慮も徹底されています。こうして海の恵みを生かした塩は、全国各地へ届けられ、今も島の暮らしと産業を支え続けています。
松島

桜坂

松島炭鉱(第四坑跡)

西海市・松島は、総本山から車とフェリーで約50分の場所に位置する、信号のない静かな島です。島の周囲は約16キロメートル、人口は約500人で、豊かな自然と歴史が息づいています。 島内には、ソメイヨシノ167本が咲き誇る桜並木「桜坂」があり、桜の季節には、まるで桜のトンネルをくぐるような爽快なポタリングが楽しめます。この坂道は、著名な歌の名前の由来にもなったと伝えられています。桜坂を上ると、天然記念物のアコウの木があり、その近くには松山神社の祠がたたずみます。この神社は、松島炭鉱の守り神として、かつて愛媛から分霊されたものです。 道を進むと、松島火力発電所が見えてきます。この発電所は長年にわたり県内の電力を支えてきましたが、近年では新たなエネルギーへの転換が進められています。また、島民の手で作られた「日本一小さな公園」もあり、夕日に染まる五島灘を眺めながら、静かな時間を過ごすことができます。島内にはかつての松島炭鉱の第四坑跡が残り、赤レンガの倉庫が当時の産業の痕跡を伝えています。事故で多くの命が失われたこの場所では、今も慰霊と感謝の祈りが捧げられています。島の中央に位置する遠見岳の山頂には、風力発電の風車が設置されており、自然エネルギーの活用が始まっています。 松島は、歴史と産業、そして自然が調和する島です。信号のない道を自転車で巡れば、心も体も解き放たれるような、穏やかなひとときを過ごすことができます。
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